第五回

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 与論一の繁華街・銀座通り。飲食店が立ち並び、夜ともなれば有泉飲んでご機嫌よろしい酔客があちこちでさまよう。
 この通りの中ほどにある白い建物一階から、いささか急な階段が二階へ延びている。戸を押し開けると、客は老若男女みな立ち上がり、三線(サンシヌ)や太鼓の演奏に合わせて手を舞わせ、足を舞わせて踊っていた。
 ここは民謡酒場「かりゆし」。田畑哲彦さんをリーダーとする「かりゆしバンド」が毎晩、与論の島唄、沖縄民謡、オリジナル曲を生演奏する島一番のホットプレイスだ。
 「忘れられようとしている島の文化、唄をなんとか後世に伝えていきたい」
 田畑さんたちのそんな思いからかりゆしバンドは結成された。

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 与論島には戦後しばらくまで、「夜遊(ヤユー)」という風雅な伝統が残っていた。年ごろの男性が三線を携えて娘の家を訪れ、弾きながら恋歌を歌って遊んだという。
 「表で三線を弾きながら『入っていいか』と歌った。返事がないと入れなかった。島中を回って娘を探したなあ」
 昭和二年に島で生まれた町繁栄さんは往時の思い出を懐かしむ。
 娯楽が少なかった時代、島人(シマンチュ)にとって島唄や三線は欠かせない存在だった。与論の島唄は、奄美群島にありながら琉球の影響を強く受け、独特な優しさを持つ。
 だが、昭和二十八年の復帰からは本土の文化が島にも流れ、流行歌やギターなどの楽器に取って代わられていった。
 島の文化が見向きされない時代は続いた。そんな中で、町役場職員として島の公民館に勤務し、三線を教えるなどしていた田畑さんは「島の文化は寄って立つ土台。無くなれば、われわれは与論人(ユンヌンチュ)でなくなってしまう」と考え、平成八年、仲間とともに「かりゆしバンド」を結成した。
 仕事のかたわら、さまざまな祭りやイベントに参加。活動は盛んとなっていった。田畑さんは「音楽を一生の仕事としてやっていきたい」と、十一年に役場を退職、十二年に民謡酒場「かりゆし」を開いた。

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 現在メンバーは五人。そのうちの一人、ボーカルと太鼓を担当する牧美也子さんは演奏中、ハラハラすることがあるという。
 「みなさん盛り上がってくれるのはうれしいけど、興奮すると衝突する人も出てくる。演奏中は自分で止めるわけにはいかないでしょう」
 与論献奉の島。酒の飲み方はなかなかどうしてすごいものがある。だが、度を超した島人には出入り禁止も辞さない構えで厳しく当たるという。
 「島の文化、伝統を伝えていこうとやっている。それには若い女性も年配者も、そして旅人(タビンチュ)も誰もが来られる店にしたい」
 そんな熱意の表れであった。
 最近は店での演奏のほか、島出身者や熱心なファンに支えられ、東京や大阪、沖縄、鹿児島などで精力的にコンサートを開いている。
 田畑さんは「島人には与論を再発見してもらい、旅人には『また来たい』と思ってもらえたらうれしい」と話している。

(銭本隆行)