第六回

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 空の青に海の青。サトウキビの緑にハイビスカスの赤。エキゾチックな色彩が目を奪い、そよぐ風が時間をゆったりと流す。
 そんな与論島を喧騒渦巻く都会から訪れると、いからせていた肩が軟着陸するのを感じる。鮮烈な日差しを浴びて真っ白の砂浜で遊んだ昼に、島酒「有泉」で与論献奉に耽った夜。楽園の日々を満喫すればこう思うに違いない。
 「ああ、こんなところに住んでみたい」
 だが島に暮らすことは憧れだけでは難しい。それは島を離れた島人にとってこそ切実である。
 六千人程度の小さな島では、都会のように欲しいときになんでも手に入ることはありえない。ただし、モノの不自由さは慣れで克服できる。だが、なければどうしようもないものがいくつかある。そのうちの最たるものが「教育」であり、「仕事」である。

   ◇   ◇

 島には現在、三小学校、与論中学校、与論高校があるが、それ以上の学府へ進もうとすれば島を出なければならない。
 「かりゆしバンド」のボーカルを務める牧美也子さん(32)の与論高校の同級生約百二十人はほとんど全員が島を出たという。
 牧さんもその一人。高校卒業後、栄養士を目指して岡山の短大に進んだ。
 「高校のときは『出たい出たい、絶対出ていく』と思っていた」
 しかし都会への憧れが失望へと変わっていくのに時間はかからなかった。
 「人が多く、何をするにも時間と金がかかり、なんでもないことなのに疲れた」
 短大卒業後、岡山で洋風レストランに就職。パン製造を担当した。ところが働き始めて半年。母親が体調を崩し、入院した。未成年だった妹三人の世話をする者が必要だった。
 「島へ帰ろう」
 仕事のあてはなかったが、都会に未練はなかった。
 JAの選花場のアルバイトや町の給食センターの臨時職員をした。収入は手取りでせいぜい月七、八万円。その中から車のローンも払っていた。
 「自宅暮らしだったし、島では金はかからないので特に困らなかった」
 こうして今は民謡酒場「かりゆし」で毎晩、歌姫としてステージに立っている。

   ◇   ◇

 だが、牧さんのように島に戻ってきたくとも、仕事がなく、戻ってこられない者も多いという。特に親や家族の扶養を背負いがちな「男」は厳しく、牧さんの同級生で島へ戻ってきているのは三十五人程度だという。
 岩村順一郎さん(55)は中学校まで島で過ごした。
 「当時は島に高校はなかったから、鹿児島の高校へ進むしかなかった」
 京都で大学へ入り、就職を考えたとき、島へ戻ることは頭に無かった。そもそも島には仕事がなかった。関西で金融機関に就職し、現在は大阪市西淀川区で暮らしている。
 岩村さんのように、本土などで就職し、そのまま暮らすケースがほとんど。かつては集団就職で島を離れることも多かった。関西に暮らす島出身者や二世などで作る関西与論会には現在、登録しているだけで五百人の会員がいる。潜在的な出身者を考慮すれば、関西だけで島の人口の最低一割以上にも相当する。
 関西与論会の会長でもある岩村さんは「みんな島への思いはあっても、現実は簡単ではないのです」と話す。

(銭本隆行)