第七回

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 映画「ひだるか」の上映会が先日、大阪で開かれた。この映画は、昭和三十五年に三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)で起きた「三池争議」をモチーフに、福岡のTV局の看板ニュースキャスター・原陽子が生き方を探るという内容。三池争議とは、突然の大量解雇通告に労働者側が怒って立ち上がったが、会社側の働きかけで会社寄りの第二労働組合が誕生。分断され、結束力が弱くなった労働者側が解雇を受け入れる敗北を喫した当時の世相を騒がせた一大事件であった。
 「ひだるか」とは「ひもじくてだるい」という大牟田の方言だ。買収が決まったTV局で第一、第二組合がせめぎあう中、「ひだるか」な心を陽子が克服できるかどうかがポイントとなっている。今年二月に完成し、福岡、大阪、東京などで現在、上映会が順次開かれている。
 「与論となんの関係?」
 そう考える読者もいらっしゃるだろう。しかし、三池争議、いや三池炭鉱と与論との関係は古く、そして深い。

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口之津の与論長屋

 明治三十一年七月、与論島を未曾有の台風が襲った。「奄美島唄ひと紀行」(籾義晴著)などによれば、前年に完成したばかりの学校の校舎が倒壊。暴風で人家や穀物がなぎ倒されるだけでなく、巻き上げられた潮による塩害で主産業の農業は壊滅状態。食べるものに困って口にしたソテツの毒で死ぬ者も出た。この状態の島では島人全員を養うことはできないとして、当時の大島支庁長や与論戸長らは分村計画を進めた。
 だがいくら苦しいとはいえ、島の人は簡単に島を離れる気になれず、計画は進まなかった。そんな様子をみた三井物産は、江戸時代に黒糖や米を納められない農家が豪農などに身売りし、一種の奴隷となった「ヤンチュ」が当時まだ島にいたことに目を付けた。三井物産が主家に「身代金」を支払うことで「自由」を得られる代わりに移住を勧めた。
 長崎県の島原半島南端にある「口之津」へ向けて明治三十二年二月、第一陣二百四十人が出発。翌年、翌々年も移住は続いた。
 口之津で待っていたのは、三池炭鉱から掘り出され、小型船で運ばれた石炭を大型船に人力で積み込む仕事で、待遇は過酷かつ悲惨。二十四時間労働はザラで、三日連続もあった。賃金は低く、言葉や習俗の違いから、周囲からは「ヨーロン」と馬鹿にされた。
 干潟で有名な有明海に航路が作られ、大型船が大牟田まで上っていけるようになった十年後、三井三池炭鉱へ与論の移住者は移された。炭鉱で働くなどしたが、待遇は相変わらず、厳しいものだった。
 戦後の昭和三十年代には、先の移住者を頼り、島から大牟田へ働きに出る者が相次いだ。そんなときに起きたのが、三池争議だった。

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 「ひだるか」の監督を務めた港健二郎さんは、両親が与論島出身で大牟田の生まれ育ち。父親は三池争議のとき、三井系病院の管理職で、自身は小六から中一の少年だった。
 「子供心に、なんで会社にたてつくのかな、と感じていました」
 だが当時の出来事は心に刻まれ、「大量リストラが叫ばれる昨今、改めて考えなければいけないテーマ」として映画化を思いついた。
 脚本を書く上で、延べ百人以上もの当時を知る関係者に取材を重ねた。その中で、大牟田与論会など与論出身者にも数多くお世話になったという。
 「与論は私のルーツ」という港さんを応援しようと島も積極的に協力している。
 今年五月十日には島で上映会が開かれた。土砂降りの中、体育館の「砂美地来館(さびちらかん)」へ約百六十人が集まり、「ひだるか」を鑑賞した。
 田中國重・町教育長は「島にも当時は第一、二組合の関係者がやってくるなど難しい状況があり、映画の内容を少し心配したけれど、現代にあわせたいい作品だった」とし、秋の十五夜踊りにあわせて上映会をする方針だ。
 「楽園」と歌われる表層からはうかがい知ることができない深層。与論は決して単純な島ではない。

(銭本隆行)