第八回

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 「雨(あみ)賜(た)ぼうり 賜ばうり 島が富(ぷ)どぅ 世(ゆ)が」
 顔を頭巾で覆い、紺地の着物をまとった踊り手たちは、歌いながら太鼓に合わせてゆっくり舞う。取り巻く観客は島酒「有泉」を片手に踊りを静かに(?)見守る。
 与論十五夜踊りの一コマだ。十五夜踊りとは毎年旧暦の三、八、十月の各十五日に、島の高台にある地主(ことぬし)神社境内で、島中安穏と五穀豊穣を祈って行われる奉納踊り。与論町のホームページによれば、一説では島を治めていた世之主が息子らに琉球、大島、大和(本土)の踊りを調べさせ、これらの踊りを組み合わせて永禄四年(西暦一五六一年)に始めたという。
 踊り手は、ユーモラスなお面や顔を頭巾で覆うなど独特の装束に身を包み、一番組と二番組に分かれ、それぞれ本土風と沖縄・奄美風の踊りを交互に披露する。まさに「組み合わせ」という表現がピッタリで、大和と琉球の間に位置する島の歴史が垣間みえる。平成五年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

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左:二番組(雨たぼうり)、右:一番組(末広がり)

 神にささげる奉納踊りであり、四百五十年近い伝統を誇るだけに厳しい慣わしがあった。
 琴平神社周辺の「城(ぐすく)」の縁者しかなれない二番組で踊り手を長年務めてきた内喜美村さんは「踊り手は昔、十五夜踊りの月に入ると身体を清めるため、お茶を飲まず、葬式や出産があった家に行かず、夫婦の交わりも断っていた」と語る。
 だが最近はそうした慣わしは廃れてきたという。内さんは理由について「信仰心が薄くなってきたのかな」と悲しげな表情を浮かべた。
 時代の変化は、踊りの継承にも暗雲を投げている。与論島では離島の宿命として、若者は高校を出ると島を出る。だが、一旦島を離れると、仕事がない島へ戻ってくることは容易でなく、そのまま島外に定住してしまうことが多い。
 そうなると必然的に十五夜踊りの踊り手を引き継ぐべき若手も減り、後継者難に陥る。踊り手が限られる二番組ではわずか二人にまで減ったこともあったという。島も若い血の導入に努めているが、ことが島全体の問題だけに、一朝一夕には解決できない悩ましい課題となっている。

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 島の人にとって大切な年中行事であるのは確かだが、年三回の恒例であれば、踊りだけでは少々物足りない。島の人が踊りを楽しみにする理由のひとつが、あわせて催される綱引き(八月)と相撲(十月)である。これが盛り上がる。本土では運動会や体育祭の競技から相撲は消え去り、綱引きも大人がすることはまずないが、ところがどっこいこの南の島ではしっかり残っている。
 それぞれ地区ごとの対抗戦の形式で行われる。特に相撲では、男であればウドもモヤシも恥ずかしがる間もなく、素っ裸にひん剥かれ、回しを締められる。
 「ハッケヨイ、ノコッタ」
 黄色い声援むなしく、一瞬で土俵の外へふっ飛ばされる。そりゃ普段練習もしていなければ無理もない。だが、土俵に上がることが島の男の証明であり、出場する男たちの目は真剣そのものだ。男の矜持が残る島でもある。
 そんな祭りの夜は島中で宴が開かれ、与論献奉が熱く交わされる。
 杯を手に持った「サイタラ」(島言葉で「のんべえ」)が回らなくなった舌で言った。
 「どんな祭りもただの肴だよ」
 かくして男の証明は夜通し続くのだった。

(銭本隆行)