第十四回

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 ブーーーン―。
 今日もまた、与論島に午後の時を告げる音がやってきた。空を見上げると、羽を揺らしながらこちらにウインクしている。島に恵みと、そして出会い、別れをもたらす定時便の飛行機の到来であった。
 「第二の成田」
与論空港の開港にまつわる話を尋ねると、町役場の南仁孝事務局長が当時をこう表現した。今でこそ、空港は島にない生活必需品や、島を支える観光客を運んでくれる切っても切り離せない不可欠な存在となっている。だが、昭和五十一年五月に島西部に空港が開港し、航空時代の幕が開くまでは反対運動も起き、決して容易な道のりを経たのではなかった。

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 離島である与論島のかつてのメインの足はご多分に漏れず、船であった。今のフェリーは性能が上がったとはいえ、鹿児島から与論までは約二十時間の航程である。だが、かつての船は鹿児島を夕方五時に出れば、途中奄美群島の多くの島にも寄るため、翌々日の早朝に到着したという。足掛け三日に渡る長い旅路だった。そのため、家族に不幸があったときでも、すべてが終わってから島にたどり着くこともしばしばだったという。
 また、急病人が出たときには、沖縄の米軍ヘリコプターに来援を要請し、小学校の校庭を空港代わりに急患を運んだ。
こんな猯ヅ膓讚瓩榔眸の島ならばどこも同じで、空港建設は悲願だった。誘致運動が繰り返された結果、次々と空港は誕生。そして最後に残されたのが群島南端の小さな与論島であった。
 もっとも与論島も指を加えてみていたわけではない。空港誘致活動は行われ、昭和四十六年から建設地などの調査が開始され、適地候補が挙げられた。
狭い島内にあって比較的広くて平らである百合ケ浜近辺は当初、有力候補となった。しかし、島の宝であり、大事な観光資源でもある百合ケ浜は、風向きも悪いこともあり、断念。現在の立長地区に絞られた。
 だが、狭い土地に多くの島民が寄せ集まって暮らす与論島では、先祖が残してくれた土地への思い入れは強く、当初から多くの地権者が反対。島内は反対派と推進派に分かれ、衝突が繰り返された。測量に入るときには、反対派が筵旗(むしろばた)を掲げて取り囲み、反対の気炎を上げた。そのため鹿児島県警の機動隊が来島し、測量を見守るという緊迫した事態に陥った。折しも、本土では三里塚闘争など成田空港開港への反対運動が激烈に行われており、与論島は「第二の成田」とまで呼ばれた。
 しかし、なんとか最後は話し合いで解決に至り、強制収用という最悪の事態は回避された。そして昭和五十一年五月に開港された。

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 滑走路は千二百メートル。東亜国内航空がYS-11機で毎日一便を乗り入れた。開港記念式典には運輸大臣が訪れ、島は未来へ向かって大きく活気づいた。
 昭和五十四年以降は南西航空が那覇や沖永良部からの便を乗り入れた。
  五十四年には海の玄関となる供利港も開港し、島を訪れる観光客も年々増えた。夏場のピーク時には飛行機は増便され、五十七年には十三万人の観光客を数えた。ただ、情報技術が発達し、スピードを増す社会の変化の中で、島といえどももはや停滞は許されない。
 現在の与論空港には管制塔はない。すべてパイロットの有視界飛行に頼っている。
一時間おきに空港では気象観測を行い、風速が毎時十五丹幣紊砲覆譴弍森劼話羯澆気譴襦
 現在の飛行機(Q-400)は定員七十四人だが、天候や重量の影響で六十人台に減らされることもある。そのため、輸送人員、物資にも限界があり、より大型の機体の運航を可能とする滑走路の延伸も望まれている。こうした声を受け、現在も用地買収は続けられているが、土地への思い入れを無視するわけにはいかず、地権者との話し合いは平行線をたどっている。
 ちっぽけな島の玄関である与論空港。そんな場所にも多くの歴史、そして未来が含まれている。

(銭本隆行)