第7回

3号特集 ヨロンの親父「有村治峯」〜その1〜

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 島の港では、今日も旅客船が大勢の人々を運んできた。降り立った観光客や旅帰りの島民たちは、眩しい夏の陽射しに目を細め、陸から吹くさときびの風を頬の隅で感じ、皆、それぞれの場所へと歩いていった。
 船、そしてさとうきび。当たり前に幸せに流れる風景には、ある偉人の足跡がある。故有村治峯翁。「ヨロンの親父」である。
一代で年商三百億のグループ企業を築き、歴史に残る偉業を成し遂げ続けるなか、翁は生まれ島を心から愛し、計り知れず多くのものを私たちに示してくれた。
 尽きることのない卿土愛。その人生の一片を今回ご紹介したいと思う。

 明治三十三年六月十五日、治峯翁は茶花の家に生まれた。
 家は貧しく茅葺きの高倉に住み、卵一個を家族で分け合い、屑いもを拾って食べなければならないほど苦しい生活を送っていた。 
 貧乏生活を抜け出すため、治峯少年は十七歳で一大決心。ヨロンを旅立ち、名瀬(奄美大島)の白石商店で丁稚奉公を始めたのだった。頑固だった父親もこの時ばかりは「お前の好きな所へ行って働きなさい」と賛成してくれた。
 真面目に一生懸命働く姿は周りの目を引き、島を出た少年はわずか二年で番頭に上り詰めた。黒糖の取引などを主に商売をする過程で「生きた商業」を体験し、ここから大企業家有村治峯の第二の人生がスタートする。

 その後、翁は二十二歳で独立。黒糖の仲買と紬の製造販売を始める。白石商店で身に付けた商売法と、持ち前の研究熱心な性格をフルに活かし、小さな会社は順調に拡大していった。しばらく経つと黒糖の取引量は三万樽に達し、紬は最初二台か三台しかなかった機織が、昭和の初め頃にはなんと百倍以上の台数を持つようになり年間三千五百反から四千反の紬を生産するようになった。

 次回へ続く…

有村治峯百歳
有村治峯十七歳
生家跡の今の様子。少し盛り上がってる所に高倉が建っていた。奥の家には長い間神生さん(治峯翁の兄)が住んでいた。
右から四男泰治、次男神生、三男治峯

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