第八回

3号特集 ヨロンの親父「有村治峯」〜その2〜

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平成17年 供利港
 黒糖と大島紬が軌道に乗った時点で、翁は海運業にも興味を示し始めていた。
 奄美の海運業は戦後から祖国復帰まで、企業同士が先を争う激しい群雄割拠の時代。そこに翁は足を踏み出した。幼少時代に乗った父親の小船の記憶が忘れがたく、どこか憧れとして海運の事業をずっと夢見ていたのである。

 昭和三十年代初期、鹿児島から沖縄間の大型旅客船の航路はヨロン島に寄港せず、隣の沖永良部から島を通り過ぎ、沖縄へ船を進めていた。理由は「人口の少ない島に泊まるのは経済的に困難だから」。 
 島では二十八年に祖国復帰し、ようやく農業や漁業も活気づいてきた頃。経済発展のため日々精一杯汗を流していた島民は「一日でも早く船が港に泊まりますように」と、安全で便利な海上交通をまさに一日千秋の思いで待ち望んでいた。
 翁はそのような現状を見て決断。
 鹿児島―奄美各島間の一般旅客定期航路の免許を取得し、待望のヨロン寄港船「あけぼの丸」を造ったのである。しかもこの航路はヨロンを起点に運行し、島に寄港するのがちょうど昼過ぎの便利な時間になるよう運行時間が組まれていた。
 島民は夢が叶い、諸手を挙げ大喜び。沖縄から出た船は、大勢の人や多くの食物を島に運び、そして島からは大量の砂糖や野菜(大切な資金源)を奄美、鹿児島へと運んだ。「離島にとって航路は道路と同じ、生命線だ」。翁の言葉通り、海に出来た夢の橋は生活を支え、島は次第に活気づき潤いだしたのだった。

 今でこそ当たり前のようにヨロンの港に泊まる旅客船、この便利さと幸せは、こうした翁の「地元ヨロンを想う気持ち」があってこそ現在ある。そのことをヨロンに住む私たちは絶対に忘れてはならないのだ。

 次回へ続く…

昭和三十九年
ヨロンの港に接岸したあけぼの丸
昭和五十二年 江ヶ島桟橋沖 当時はまだ大型船は港に直接泊まれずに、ハシケ(小舟)で本船まで向かっていた。

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