第19回

背中を押してくれた人 PC編
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与論島のことなら何でも来いの田中さん


冷や汗気味の震災体験談の発表会


ヨロンマラソンのスタート前の古川先生と


那間小学校の児童達と。マラソンの話分かってくれたかな?


ここで会ったのが百年目、茶花でばったり植田さん
 今はこうしてパソコンのお世話になっているが、数年前までは全然見向きもせず、むしろ敬遠さえしていた。そんな時に、偶然にも順繰りに背中を押されてしまって、とうとうこのサイトに顔を出すまでになったのは、不思議な縁があったとしか思えない。

 楽園荘で知り合いになった人の中で、偶然にも同じ明石市から来ておられる田中さんは、私と同年輩ながら元ジャーナリストで、マラソンには参加されないけれど、長期間にわたって与論島の全ての地点を歩き回り、詳しい情報を入手されて来られる。各方面の知識も豊富で、いろいろ教えて頂ける夕食時が、コップ一杯の有泉と共に楽しみだった。その時に、田中さんがずっと持ち歩いておられたのが最新型のノートパソコンで、種々活用されていて、ご自宅からのメッセージも届く有様を横目で眺めながら、「こんな辺鄙な所にいて、それでも娑婆に繋がっているなんて勿体ない」と暴言を吐いたものだった。(ごめんなさい!)

 ある晩、田中さんから「パナウル診療所で会合があるから・・」と誘われて、のこのこと付いていった。古川先生が中心となってやっておられたパソコン通信の話だったが、チンプンカンプン。最後になって阪神淡路大震災の事に話題が移っていった時、同じ明石市でも田中さんの見方と私の言い分が全然合わなかった。元ジャーナリストの田中さんは、ヘリコプター的大局からの見解、一方、私は地割れがしているといって、床下を這いずり回っている蟻の目だ。その差は、同じ明石市と言っても田中さんの住む場所は、震源地から西へ15km程離れていたせいかもしれない。意見の相違を見て取った古川先生。「来年のマラソンの時にまで資料を纏めて発表して下さい」という事になったのでした。(99年3月)

 翌年、震災関係の写真や資料を持参して古川先生にお見せしたところ、「パナウル診療所で発表して下さい。人を集めますから・・」とんでもない。口下手だし、第一、人前で話をする事は、今までにそうそうなかった事だ。それでも先生の「貴重な体験だから是非に!」との事で「震災体験談」を発表する事になってしまったのでした。(2000年3月8日)
 2時間に及ぶ話を聞いて下さった方の中に、田中教育長さんがいらっしゃった。(当時は那間小学校校長)終わった時に、田中教育長さんは「是非、那間小学校で子供達に話をしてやって下さい」とは、又又びっくりでしたが、こうなれば、一回の恥も二回の恥も同じ事と思ってお引き受けしてしまいました。
 那間小学校では、最初に全校児童達と一緒に体育館の中を走った後、マラソンに就いて15分程話をさせて頂いた。冷や汗ものだったが・・・・・
 更に教育長さんの注文が付いた。「震災体験談を、一冊の本にして下さい」これには参ってしまった。どうしよう・・・・・(2000年3月13日)

 家へ帰ってからワープロを買って何とかしようと思っていたところ、次女の連れ合いが「同じやるなら、パソコンの安いのが有るから・・」と言って中古のパソコンを持ってきてくれた。それは良いけれど、何の予備知識も無かったので、スイッチを入り切りする事から始めた。ウインドウズ95と言っても何のことか分からず、とにかく文章が入力出来ることが先決で、半月程は「あいうえお、あいうえお、かきくけこ・・」とキーボードを弄っていた。幸い体験談の原稿は、A4用紙にぎっしりと15枚も書いたのが残っていた。
 全部パソコンに入力したデータを、次女の連れ合いに送ってプリントアウトしてもらい、それをマスターにしてコピーして、やっと本らしき形にして田中教育長さんにお送り出来たのは半年後だった。

 翌年、楽園荘で一年ぶりに再会した明石市の田中さんと早速パソコン談義。「あんたの言った事と、やる事は大違いや・・」と、言われてしまった。弁解の余地なしです。

 今年の3月、このサイトのWebマスターの植田さんとお会いした時に、話が飛んで「震災体験談」をお見せする事になった事から始まって、一月に一回のペースでヨロンマラソンの話を書いてみては?と言われた。自信など無かったが、とうとう植田さんのおだて上手に乗っかってしまった。それが何時の間にか週一回の更新になっていて、締め切りに追われるスリルを味わっている。
 とかく成り行き任せには・・気を付けた方が良さそう。 (
2004.10.8 亀野稔)