第33回

震災から10年
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発生直後、何もかも落ちて足の踏み場が無く、壊れた物は処分するよりしようが無い


崩れ落ちたモルタル壁と盛り上がったアスファルト


やれば出来る見本かも チャチで割れた基礎の下に丈夫な基礎を作っている


家の土台と言えば動かない物では無い 痛んだ土台を取替え中


合板の上に貼り付けたアルミサイジング
 1月17日は阪神淡路大震災から丁度10年。与論島の話題から外れるがご容赦願います。
 大事件に遭遇した時のタイミングの良し悪しが有るとしたら、この震災に遭遇したタイミングは、私にとっては良い方だったと思っている。勿論遭わない方が良いのに決まっている。当時の私は定年後3年、前年にはサロマ湖100kmマラソンを完走して体力気力は充分。矢でも鉄砲でも来い・・位の絶好調だった。しかし・・・

 95年1月17日。午前5時46分。ただ事ならぬ揺れで目がさめました。それまで阪神地区では地震は起こらないと新聞などに書かれていたので、地震だとなかなか気が付きません。やっとそうなんだと気づいたものの何も出来ず、布団を頭からかぶる事さえせず、この揺れは何だ!何で揺れるんだ!こんなに揺れるなんてどうした事だ・・・・とだけ思っていました。横の妻が「痛いっ!」と叫びました。頭に何かが当たったようです。
 大音響と揺れがようやくおさまると、ぷーんと土の匂い。廻りは壁土が落ちてざらざらです。早く逃げ出さなければ・・・・・
 ドアーは家が歪んでいて開きません。それでも一箇所だけ体当たりして逃げ道の確保をしました。続け様の余震が襲って来て、バラバラッと何かが落ちる音がしました。外へ出るとガスの匂いが立ちこめています。水道は直ぐに断水で、もし、これで火災が起こったらどうしようと心配したものの、どうしようもありません。近所の人達も外へ出て来ていて、お互いの 何とか無事だというのを確認し合い、火の気に注意しようと言い合いました。幸い火事は起こりませんでしたが、もし、どこかで出火すれば、防ぎようがなかったでしょう・・・・・(2000年6月8日パナウル診療所での震災体験発表から)

 命さえあれば後は何とかなるもの。建築の知識はゼロだったので参考資料探しから始めた。日曜大工のチマチマした工作の本は多いが、家の基礎、柱、壁などの工事仕様などを書いてある本を探すのは一苦労。耐震工法は大阪の研究会へ行って勉強した。当時はあちこちで家の建築が始まっていたから、大工さんの技を見たり尋ねたり、お陰さまでプロの技術が随分参考になった。
 やり始めて、いろいろな事に気付いた。第一にコンクリート。丈夫な物の代名詞なのだが、ハンマーの一撃でポコンと割れる所があって驚いた。割れ目に貝殻が見えるのは海砂を使った証拠で、ラスや鉄筋を腐食して膨張して割れ、それ自体が崩れると共に雨水を呼び込み、木部がボロボロになっていた。セメント工事だけでも欠陥があちこちに有って、激しい揺れで破壊され、基礎には2センチほどの割れ目が東西に走っていた。一事が万事。良心的な大工さんもおいでの事だろうが、我が家を建てた大工さんは手抜き工事の見本で、でも30年以上前の事となると時効と言われてもしようが無い。

 地面が不同沈下を起こしたので、基礎から傾いてしまった家の修復には3年半を要したが、やれば出来るもの。セメントの練り方を覚える事から始まって、傷んだ基礎の修復と強化は、暗い床下の工事が2ヶ月ほど。傾きを直すのには7トンの油圧ジャッキで土台を持上げたのも床下の作業。悲惨なサリン事件も、暗闇の中のラジオから聞いていた。土台や筋交いに柱の交換修復。耐震性アップに効果的な合板の貼り付けや補強金具の取りつけ、内外の壁のやり替えなど徹底的に納得のいくまで総ての工事を独力でやり遂げたと、最近まで思っていたが、大勢の人の助けを受けていた事に気付いた。
 独力でも出来ると背中を押してくれたのは大阪でのDIY見本市で、そこで相談に乗ってくれた一級建築士さんだった。その他、建材店や材木店の店員さんからも、多くのノウハウを教えて頂いた。
 楽園荘のマサ子さんからはヨロンマラソンの時よりも熱烈な声援が届いた。(第18話、背中を押してくれた人参照)そして長い間、埃まみれになりながらも文句を言わずに支えてくれた家内。
 こうしてみると、災害に遭いながらも結果オーライだったのは不幸中の幸い。
皆さん、本当に有難う!! (2005.01.11 亀野 稔)