第46回

与論島と写真と
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1kgを超える一眼レフと200gを切るデジカメ 大きなカメラで構えられたら一寸怖いかも 今まで失礼致しました 


10年前の写真が無く、代わりに5年前のヨロンマラソンの児玉先生夫妻 見事完走


相手は誰であれ与論献奉は大歓迎


畑中さん親子 暫くお逢いしていませんがお元気ですか?


13年前のヨロン駅の車輪 ピカピカに光っている
 どこへ行くのにもカメラを手放す事は無い。20歳頃から始めたので、もう半世紀以上になるが、腕前の方は少しも上がらない。本人は、こんなもんだと悟りを開いているから余計に始末が悪い。
 しかし道具の進歩は素晴らしい。約50年前、当時は二眼レフの全盛期で、高級機には手が届かないから安いのを買って、撮影用のレンズに引伸機用の上等のを買ってきて付け直して撮影していた。何故、そんな手の込んだことをしていたかと言うと、安いカメラのレンズは3枚構成で、高いのはそれが4枚構成になっていてピントが良く合うと言うからだ。当時はニコン、キャノンなどは超高級機で手が届かない時代で、1年分の給料を当てても足らない位だった。ストロボなどはまだ無く、マグネシュームの粉末を専用の入れ物に盛り上げ、古いライター式の仕掛けでパッと発火させたら白い灰が飛び散る有様。電球型の閃光球も有ったが高価で手が出ず、そんなのはプロしか使っていなかった古き良き時代だった。
 時代は進み、物は豊富になってきたせいか、ありがたい事にカメラの値段は余り変わらず、頂く給料がぼちぼちでも上がってきて、やっとキャノンを愛用するようになった。重くて大きいが、写りそのものはピカイチだった。今はご存知の通りデジカメの全盛期。時と場合によってはこれほど便利な物は無い。コンパクトでポケットに収まるし、相手に威圧感を与えない。使い捨てカメラにもストロボが付いていて、日中の撮影の時に光ったりするのもご愛嬌だ。

 第一回目のヨロンマラソン。当時はキャノンの一眼レフを振り回している頃だった。初めてのウェルカムパーティの時に、例の与論献捧で、家内の持っている大杯に有泉を注いでくれているショットが有って、その時は分からなかったが、数年してから写真を見直していて、あれ?どこかで見た人やなとやっと気が付く悠長さ。実は、当時はまだ独身の歯科医の児玉先生だったのです。この後、児玉先生にはいろいろお世話になる事になってしまうのですが・・・・・
(児玉先生の写っている筈のネガを探したが見つからず、プリントしたのは先生にお渡ししているので、代わりの写真で失礼します。相手変われど、飲む主変わらずですが・・)

 二回目の大会のゴールの後、完走パーティが始まるまで茶花の砂浜で待っていた時の事。小学生の二人連れがゴールしてきた。当時は小学生でもフルマラソンを走っていたのだ。早速二人の写真を取り、彼らが茶花小学校の児童だと言うので、帰ってからプリントして茶花小学校に送ったのが縁で、茶花小学校の校長先生とのお付き合いが始まった。それに小学生ランナーの畑中君とも手紙のやり取りをするようになった。もう10年以上経つ。もう学校を卒業して社会人になっているはずだ。
 その時に小学5年生だった畑中和也君から来た手紙の一節を紹介しよう。
「走り終わった後、来年は走らないと思ったけれど、やっぱり来年も走るつもりです。いろんな人に逢えてうれしかったです・・・・・」
 お父さんの畑中金四朗さんからの一節。
「当初は完走できるかどうか心配でした。けれど、最後ゴールする姿を目にした時は、胸が熱くなる思いでした。レースの後、もう絶対走らないと言っていた子供が日が経つにつれて又来年も走ってみようかなと言うようになりました。・・・・・」
 これも一枚の写真の取り持つ縁である。

 今年も300枚程写真を写してきた。その中の数枚はここで早速載せて頂いた。内輪話になるが、コラムで使っている写真と話の内容は、必ずしも一致していない。年代が違うのを持ってきて合わしている事もある。以前に写した多くの写真があるので助かっている。こういうのを「下手な鉄砲 数打ちゃー当たる」の見本だ。鋏が無くても切る事が出来るし、邪魔者は消す事も可能とは、デジカメ時代でしか出来ない話。Webマスターから「今回の写真もきれいだね」・・・本当ですか??
 でも、セピア色に変色した写真は元に戻せない。綺麗な色は思い出の中で浮かんでくる。
 何時の間にか、私のデジカメも2台目になっている。 (2005.04.16 亀野 稔)


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