第49回

今は昔の大切な写真
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都井岬の野生馬 私と同じように足が短い


これで500km/hはとても無理なリニアモーターーカー(玩具かな?)


宋兄弟、谷口、森下選手と共に


バス道を登ってやっと見つけた登山道 ばてた、ばてた!! 距離がキロでなく 里で表してあるのもクラシックだ


富士山の頂上より まだ高いところでKさんと


6合目の朝 足下から宝永山の旧噴火口へ切れ込んでいる


古い山日記 ペン跡が滲んでいる(当時はボールペンが無かった)
登り始めた地点から見た富士山のスケッチ

 旅に限らず、何処へ行くのにもカメラは手放さない。長い間に写した写真もかなりの枚数になってきた。数打ちゃー当たる式の写真もあるが、いずれにしてもシャッターを切らないと写真は写らないのだ。とあれ、写真をどうぞ・・
 旭化成の宗兄弟と谷口浩美、森下広一の豪華メンバー。中にもう一人見慣れない顔があってそれが私。何でそんなところにと思われるが、実は・・・・・

 ヨロンマラソンに参加する為に、今は航空機の利用なので、朝6時頃明石を出発して与論空港には午後1時ごろには到着してしまうが、以前は軽自動車で国道を走って鹿児島まで行き、桜島の無料の駐車場に止めて置いて、フェリーを乗り継いでやっと3日目の午後に与論島到着というのんびりしたものだった。ヨロンマラソンが終わったらその反対で、鹿児島まで上りのフェリー、そこからは九州の海岸線を巡って数日かかって帰ったものだ。マラソンも楽しみだったが、あちらこちらへ立ち寄っての気侭旅も捨てたものじゃない。

 1993年の第二回目の大会後の戻りコースは、桜島から九州の東海岸添いを北上する事にしていた。コースは佐多岬まで南下し、都井岬から日南海岸、宮崎市から延岡市を経て別府、国東半島と丹念に海岸線を通って関門海峡を越えるコースを出発前に決めていたのだが、延岡と言うのが気になっていた。言うまでもなく旭化成の本拠地である。そうだ、宗さんに出会えるかもしれないなと、思いついたら直ぐに大胆不敵にも宗さん宛てに手紙を書いた。
 「ヨロンマラソンに参加した後、延岡を通って帰るのだけれど、宗さんのお時間があればお会いしてアドバイスを頂く事が出来ないでしょうか」そう言った内容だった。相手は忙しい人なので駄目で元々と思っていたが、出発前に宗さんから返事が帰ってきて、なんと会って頂けるとの事。

この時のヨロンマラソンも無事に終わり、フェリーで鹿児島港から桜島の駐車場へ戻って来ると、一週間ほどの間に火山灰が車の上に真っ白にかなりの厚さで乗っかっているのもご愛嬌。そこから錦江湾沿いに、佐多岬の先端の断崖の上まで南下してから北上して都井岬の野生馬との対面?昔は新婚旅行のメッカだった日南海岸から宮崎市を経て延岡市へ到着。約束の時間には少し早過ぎたので、まるで玩具みたいなリニアーモーターカーや、真っ直ぐに伸びたテスト線などを見物して、いよいよ指定場所の旭化成レーヨン・グラウンドへ。昼食後の軽い練習中だったが、宗さんは思ったより気さくな人柄で、練習中のオール旭化成の中に招き入れて頂いてカメラに収まった。私の秘蔵のワンショットです。
 「マイペースで・・」と言うのがその時の宗さんからのアドバイスだったが、今でもそうしているつもりだけど・・・・・ (2004.06.21)

 日本一の富士山。ここの山頂にまだレーダードームが無かった頃の話。(そのレーダードームも、今は役割を終えて撤去されるらしい)
 五月の連休を利用して友人のKさんと富士山へ登ろうと計画を立てた。下界は初夏の兆しだが、富士山はまだ積雪期というより氷の山。一つ間違えば滑落遭難の危険性もある。登り甲斐があるやんか。当時は若かったのだ。ピッケルもアイゼンも持っていたし・・・・・

 山開き後なら、5.5合目まで楽々と登山バスに乗って行けるのだが、シーズンオフ中なので路線バスに乗って三角屋と言う停留所で降り、そこから一合目まででも、やたら長い富士山の裾野から登り始めることになってしまった。
 当時の山日記がまだある。雪や雨で所々滲んで判読しにくいが、傾斜の緩いバス道を辿って4時間程登ってから、少し傾斜はきついが登山道の有るのに気が付いたのが一合五勺の標高1250mを通り過ぎてからだ。馬返しを過ぎて雪に出会う。そこから6合目の県営小屋まで唯登るだけ。小屋は無人で、窓から中に入ったが、雪も中に入っていた。小屋の板張りの床の上に簡易テントを張って寝たが、Kさんはやたら寒いとぼやいていた。そう言えば、小屋の中はどこも凍り付いたままだった。彼は寒がりだったかもしれないが、私はこんなものかなと思っただけだった。
 翌早朝、アイゼンの歯が1センチも入らない氷を踏みしめて頂上へ。
頂上の測候所の中に入れて頂いて、熱い紅茶を飲ませて頂いた事を覚えている。登山者が全くいないので、珍しがられたようだ。
 一番高い所が良いとばかり、測候所の屋根の上に積もった氷雪の吹き溜まりまで登り、職員の方にシャッターを切ってもらったのが昭和33年5月5日。46年前、27才の時だ。
 翌日、元の三角屋へ下山してバスを待っている間に、やっと姿を見せた富士山をスケッチしたのも、古いノートに残っている。けれど、Kさんは亡くなって・・もういない。 (2005.05.06加筆 亀野 稔)