「人魚の涙」

新田一木

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- 第三話 -

 いつものように海にでて、波間に漂うマサの近くに再びあの人魚が、姿を現した。小さな人魚の子供を抱いている。人魚が沈痛な面もちのまま彼女の子供をマサに差し出した。子供の右腕が大きく腫れてふくらんでいた。膿がたまっているのか紫色になっている。人魚に聞くとアパ(毒魚)に誤って刺されたという。子供の体は熱をはらんで小さな胸がフイゴのように激しく上下していた。人魚は、わが子の苦しげな様子に細い肩を、ワナワナと震わせている。

 「あなたは、見ていないほうがいい……。」母親の人魚にそう言うと、マサは釣り道具を入れてある木箱から鋭く研いでおいた小刀を取りだした。マサは、今日、この小刀で喉を一息に突いて死ぬつもりであったのだ。

 病んだ子供の花びらのように柔らかな唇が高熱のために乾いて白く粉をふいている。マサは、そのいたいけな姿に自分の悲しみさえ忘れて祈った。「天地いっさいの神よ、どうかこの子の命を助け給え……ウトゥよヤマよ、お前たちの命が短かったぶん、この哀れな子供の命を長らしめ給え。」祈りの心機が、絶頂に達したとき、小刀を一閃させ、その子の右腕を切り裂いた。ドロ、ドロと痰のような膿と赤黒い血があふれでて、舟底の板を染める。血と膿が出尽くした後も、マサは、潮水で口をすすぎながら、汚れた血を吸いだした。マサは、できる限りの処置をしたあと、傷口を布きれでくるみ子供を抱いて人魚に返した。

 わが子を黙って抱き取った人魚は、そっと自分の首に手をまわした。言葉にならぬ無言の思いがむしろ人魚の感謝の深さを表している。人魚の白い胸には小さな貝殻を点綴して作った首飾りが、水晶のように澄みきった光沢を放っていた。

 人魚は、その首飾りをはずすと、マサの手の平にのせた。

 「子供の命を助けていただいて、お礼は言葉に尽くせません。どうぞ、この小さな貝殻一個を粉になるまで砕いてお飲み下さい。あなた様は、あと二百年は、歳をとることがありません。また、二百年後にこの不老の薬をお飲みになれば、さらに二百年の命を長らえます……。あなた様は、こうして千年の寿命を保ったあと、その身のまま天に昇って、不老不死の仙人となることでございましょう……。」

 眼を閉じて人魚の話しを聞いていたマサは、ゆっくりと眼をあけて、人魚を見つめると悲しげに大きくかぶりを振った。「……妻も子も無くしてしまったこのわしが、なんでこの世に長く生きていたいものか。人間だれでも、その五十年ばかりの人生を家族ともども、病なく不幸な死に方をする者もなく、たとえ貧しくとも、平凡に明るく生きてゆければよい。平凡とは美しいことなのだ。当り前に生きてゆけることが、どれほど有り難く尊いものであるか……平凡の幸せをすべて失って、今わしは、しみじみそう思う。人様と違って百年も二百年も長生きし、この世との別離に臨んでは、天に昇り仙人になろうなどという気は、わしには、これっぽっちもないんだよ……。ああ、わしは、今度、生れ変われるなら、家の前のユーニャの樹々を大ぜいの仲間と楽しげに歌い回る小鳥のようになりたい。小鳥は、その家族も、みんな、ささやかだけど、満ち足りた幸せに楽しんでいる。朝になれば、花の露をすすり、樹の実をついばむ。日が暮れて住む巣がなければ、体を寄せ合って眠る。小鳥達は、その命のあるがままに生きて、手酷い不幸に泣くこともない。また、彼らが、そのように生きてゆけることを、このわしも祈ってきた。今の自分には、到底、望めないことなのだ。人魚さん、この首飾りは、あなたに、お返ししよう。今の自分は、何もかも命さえも、欲しくないんだよ……。」

 マサは、子供を抱いて、舟べりにすがっている人魚の胸に、もう一度その首飾りを返した。人魚の深く澄んだ瞳から、熱い涙があふれ、唇が、かすかに震えて何か言おうとするのだが、言葉にならない。

 「人魚さん、さあ、海の底にお帰りなさい。」マサは、舟べりをつかんでいる人魚の細い指を、そっとはずした。

 「……たまった血が、また膿むかもしれないから、あとしばらくは、傷口から、吸い取ってあげるのがいいでしょう。」マサは、人魚の胸に抱かれている子供の頭を、軽くなでた。そして、人魚に向かって「それでは……」と、別れの会釈を送ると、岸に向けて舟を漕ぎはじめた。

 夕陽が、水平線の彼方から、ゆらゆらと金色に燃える光を、青い草原をよぎる一筋の河のように流している。その空と海に染み渡るような茜色の河に小さなシルエットを浮かべて、マサのくり舟が、ゆっくりとすべってゆく。千万(ちよろず)の花びらのようなさざ波が、櫂の滴を金と銀とに散らして戯れる。子供を抱いた人魚の姿が、のびやかな光の波に包まれて金色に輝きながら、島影にすいこまれてゆくマサの後ろ姿を、いつまでも見送っていた。

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  作者紹介

新田一木(にった いちぼく)

古くからある老木が、用をなさぬがゆえに切り倒されることもなく、生き永らえてきた。
昔から今へ、老木が見つめてきた島人<シマンチュ>の生活。

年輪に刻んだ与論島の喜びと悲しみを、無用の老木が、今、静かに語りはじめた。