「人魚の涙」

新田一木

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- 最終話 -

 マサは、その翌日から、あの白いユーニャの花を持って、再び漁に出るようになった。取れた魚は、ことごとく貧しくて子供の多い村人の家に分け与えた。海の事故や病に、男や働き手を無くした家庭は、島でも少なくはない。「人魚のくれた贈物じゃ。」そう言ってマサは、ウスムトゥ(台所)の石台の上に魚を置いていくのであった。男手を失って、虫の喰ったニガ芋しか食べたことのない家では、子供達が、どんなに喜んだことか。マサが来ると子供達は、待ってましたとばかりに、歓声をあげながら、するするとイシカタの樹に登ってゆく。青いイシカタの実は、涙が出そうなくらいしょっぱい。それを、チュル、チュル、と絞りながら刺身にかけて、口いっぱいに、頬ばるのだ。土間で、魚を煮ている焚き火よりも明るく、子供達の笑いさざめく声が、ウスムトゥの黒く煤けた天井にはじけて戸外にこぼれでる。人魚の贈物は、風のある日でさえ、ただ白いユーニャを、海辺の近くに浮かべるだけでいくらでも受け取ることができた。霊妙で甘美な香りに引き寄せられてくるのか、ハタアシ、ダフミ、ブラ、イラブチ、……と海の幸が群れをなしてユーニャの花の下に集まってきた。

 いくらか元気になって、少しずつ、村人とも口をきくようになったマサは、子供を抱いた人魚の像を、天然の石灰岩を削って作り始めた。村人が、手伝おうとしても、「いや、これは自分独りで作らねばならん。」と言って固く断り続けた。漁に出かける合間に、大きな岩を彫刻する、独りきりの作業であったから、できあがるまでに、五年もの歳月が、かかった。

 ついに人魚の石像が、完成した晩、村人達は、マサを囲んで祝宴を開き、その喜びを分かちあった。八年前、息子のヤマを亡くしてからは、酒の味さえ忘れかけていたマサは、久しぶりに仲間らと酒を酌み交わし、楽しく笑っていた。絶えて、耳にすることのなかったマサの哄笑を聞いた時、幾人かの女達が、そっと、うつむいて、あふれでる熱い涙をこらえていた。彼女らもそれぞれの不幸を、心の傷として、魂の奥深く秘めていた。いつも、マサから魚をもらっている子供達が、その母親をまねて、できたばかりの人魚の像に向かい、「トッ、トートゥ、ガナシ(どうも、有り難うございます)。」と無邪気に小さな手を合わせて拝んでいた。

 それから、二日後の晩。冴え渡るような月の光が、さざ波ひとつない海面を照らして、海は、まるで銀箔を延べた鏡のように、白く輝いていた。その水晶のような海に、細く白い泡の軌跡を引いて、一そうの小舟が、沖へ向けて漕ぎ出していった。舟の水押しには、一輪の白いユーニャの花が、置かれている。マサは、今宵、漁に出て、人魚像の完成祝いをしてくれた仲間に、お礼の魚を持っていくつもりであった。マサが、取ってくる海の幸は、彼が言う通り「人魚の贈物」なのだ。マサのあまりの漁のうまさに、村人達も、それを信じていた。

 「きれいな月夜じゃねえ……人魚さん……。」はるか岸辺の石像に向けて、マサは、つぶやいた。人魚の石像は、皓々として水面に照り返る月の光のなかで、ひっそりとした孤影を浮かべて、たたずんでいた。人魚が、見つめている銀色の水平線の彼方に、初秋の色合いを添えた空が広がっている。

 「マサさん、……寂しくは、ありませんか……。」初秋の空から、月の光とともに、爽やかな風が送られてきた。その透明な風に、マサは、人魚のささやきを聞いたような気がした。その晩、漁に出たきり、マサは、島に帰ってこなかった。それから、十日ばかり風ひとつない凪が続いたので、村の漁師達は、ヤンバル(沖縄)の近くまで捜し回った。けれども、マサの小舟の影さえ見つけることができず、ただ不思議なことに、白いユーニャの花が人魚の像の足元に打ち上げられていた。

 「マサは、人魚に連れられて、龍宮にいったんじゃろう……。」村人達はマサが作った人魚の像を見ては、そのように噂しあった。

 家主を失って、ユーニャの樹は、それから二度と白い花を咲かせることがなかった。あとには、マサの形見である人魚の石像だけが残された。

 激浪のため、右肩の欠け落ちた与論島の人魚姫は、今でも、まだ、左手でしっかりと、我が子を抱きしめたまま、紺碧の海が秘めている、遠い哀しみの歳月を、静かに見つめている。

おわり

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  作者紹介

新田一木(にった いちぼく)

古くからある老木が、用をなさぬがゆえに切り倒されることもなく、生き永らえてきた。
昔から今へ、老木が見つめてきた島人<シマンチュ>の生活。

年輪に刻んだ与論島の喜びと悲しみを、無用の老木が、今、静かに語りはじめた。